令和ゆかりの地、太宰府を散策(その2)
先月、実家のある福岡に戻ったとき、帰りの飛行機に乗る前に、令和ゆかりの太宰府を散策してきた。
前回のブログに続き、今回は大宰府政庁跡と坂本八幡宮を訪れた後、辺りを散策しながら観世音寺に行ってみることにした。
案内板を頼りに観世音寺の方向に歩いていくと、所々に歌碑がある。
大宰帥大友卿の報凶問歌(だざいのそちおおともきょうのきょうもんにこたふるうた)
「余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理(よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり)」(万葉集巻五 793)。これは大伴旅人の歌で、大宰府赴任後妻を亡くし、不幸を重ね、「世の中はむなしいものだとつくづく知るとき、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ」と歌った歌です。

以下は筑前国守・山上憶良が撰定した歌
⑴子等を思ふ歌
「爪食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより 来たりしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ」(万葉集巻五 802)
⑵反歌
「銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」(万葉集巻五 803)
これらは山上憶良が筑前国守として国内を巡行し、神亀五年(728)七月二十一日に嘉摩郡(かまのこおり)で撰定した歌六首の中の二首で、子を思う親心を歌った歌です。

さらに歩いていくと、「太宰府学校院跡」と書かれた説明板が目に止まった。説明板や太宰府観光のWebサイトによると、
学校院(府学)とは、古代の律令官制機構を支える大宰府の役人養成機関で、西海道(九州)諸国の郡司の子弟が学んでいた。「職員令(しきいんりょう)」によると府学には博士1人が置かれたが、後に音博士(おんはかせ)・明法博士(みょうほうのはかせ)が増員された。天応元年(781)の太政官符には医生・算生(さんしょう)200余人とあるという。
「学生」は、官吏として必要な教養科目として『論語』『孝経』など儒教の基本文献など学んだ。 「医生」は薬や医療のことを学び、医師となった。 「算生」は算術を研究し、計算や測量などの技術系官人となったそうだ。
調査では蓮華文様塼が出土しているが、未解明な部分も多く残されているそうだ。
太宰府学校院跡の説明板

太宰府学校院跡

ただ、古の学校跡も、現在では一見田んぼや草むらのような景色が広がっている。
この後は、途中道に迷いながらも何とか観世音寺にたどり着いた。なかなか入口が見つからないなぁ、と思っていたら、そこは裏口だった。どうりで分かりにくかったわけだ。
観世音寺は、天智天皇が670年頃に、筑紫(福岡)で亡くなった母斉明天皇の追福祈願のために発願して建立された寺院だ。「府の大寺」とよばれ、西海道(九州)の仏教寺院の頂点となる大寺院で、761年には東大寺・下野薬師寺とともに三戒壇の一つとなったそうだ。
講堂(本堂)

金堂

五重塔心礎。金堂の向かい側にはかつて五重塔が建っていたそうです。

楼鐘。この中に国宝・梵鐘が吊るされています。

境内には、国宝「梵鐘」や、馬頭観世音菩薩立像や阿弥陀如来坐像、十一面観世音菩薩立像など何体もの巨像が林立する「宝蔵」がある。宝蔵に収められているこれら仏像は国の重要文化財に指定されている。高さ5mほどもある彫像が林立する様は目をうばわれる。
宝蔵

宝蔵の看板。館内は写真撮影禁止なので、内部の様子はこの看板の写真を見てください。

僕は小学校か中学校の頃、社会科見学で観世音寺に行ったことあり、その時も宝蔵の中も見学したんだが、その時の記憶ではとっても広々とした空間にとても大きな仏像が並んでいたというものだったが、中に入ってみると「あれ?こんなに狭かったっけ?」と思ってしまった。何分にも、小学生(または中学生)の頃なので、中の空間がもっと広々としていたように感じていたのだろう。
観世音寺の中をひと通り見て回った後は、裏口から入ったので正面入口の方に行ってみた。何のことはない。入口は県道沿いにあった。政庁跡の正面入口から県道を歩いていけば、迷わずに済んだのだ。
観世音寺の正面入口の石標

県道を政庁跡の方に歩いて行ったら「戒壇院」の入口があったので、ここにも行ってみることにした。
戒壇院とはどういうところなのか、説明板や太宰府観光のWebサイトによると、
「僧が守るべき道徳規範や集団規則を「戒律」といい、戒壇は正式な僧侶となるための授戒を行う場所。戒律は、聖武天皇に招請され来日した唐僧・鑑真によって伝えられたもので、鑑真は失明しつつも、6度目の渡航でようやく日本へ渡り、京に向かう途中、観世音寺を訪れて、753年12月に日本で初めての授戒を行ったのそうだ。761年、観世音寺に戒壇院が、西海道(九州)の授戒の場として設けられ、東大寺(奈良)、下野薬師寺(栃木)の戒壇院とともに、「天下の三戒壇」と呼ばれました。」
だそうだ。
戒壇院の正面入口の石標

塀のすぐ内側にそびえる大木

山門

本堂

鐘楼

西戒壇再興碑と書かれた石碑

戒壇院を出てから、さらに県道を歩いて行ったら、朱色の柱の建物が目に止まった。この建物は「太宰府展示館」で、大宰府史跡の発掘調査によって検出された遺構(溝)の一部を保存公開し、出土遺物や模型などで大宰府の歴史と文化をご紹介している施設だが、この日は月曜日で休館日だったので中には入れなかった。残念。
太宰府展示館

その後は大宰府政庁跡の入口まで戻って、政庁跡の正面から南に真っ直ぐ伸びる「朱雀大通り」を歩いて御笠川にかかる朱色の欄干がある橋まで行ってみたら、その脇には大宰府朱雀門の礎石と推定されている礎石がある。ここに朱雀門があったと考えられているそうだ。
御笠川にかかる橋の欄干

柿本人麻呂が筑紫国に行くときに、海路において作った歌を刻んだ歌碑
「大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ」(万葉集巻三 304)

大宰府朱雀門の礎石(と推定されている)礎石

大宰府朱雀門礎石(推定)の説明板

そこから三笠川沿いに歩いて都府楼前駅まで戻ることにした。
おわり。
関連サイトはこちら。
太宰府市ホームページ:
http://www.city.dazaifu.lg.jp/admin/important/14987.html
新元号「令和」ゆかりの地 太宰府市に関する詳細資料:
http://www.city.dazaifu.lg.jp/material/files/group/1/0507reiwapanhu.pdf
日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」 ~東アジアとの交流拠点~:
http://www.dazaifu-japan-heritage.jp
前回のブログに続き、今回は大宰府政庁跡と坂本八幡宮を訪れた後、辺りを散策しながら観世音寺に行ってみることにした。
案内板を頼りに観世音寺の方向に歩いていくと、所々に歌碑がある。
大宰帥大友卿の報凶問歌(だざいのそちおおともきょうのきょうもんにこたふるうた)
「余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理(よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり)」(万葉集巻五 793)。これは大伴旅人の歌で、大宰府赴任後妻を亡くし、不幸を重ね、「世の中はむなしいものだとつくづく知るとき、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ」と歌った歌です。

以下は筑前国守・山上憶良が撰定した歌
⑴子等を思ふ歌
「爪食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより 来たりしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ」(万葉集巻五 802)
⑵反歌
「銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」(万葉集巻五 803)
これらは山上憶良が筑前国守として国内を巡行し、神亀五年(728)七月二十一日に嘉摩郡(かまのこおり)で撰定した歌六首の中の二首で、子を思う親心を歌った歌です。

さらに歩いていくと、「太宰府学校院跡」と書かれた説明板が目に止まった。説明板や太宰府観光のWebサイトによると、
学校院(府学)とは、古代の律令官制機構を支える大宰府の役人養成機関で、西海道(九州)諸国の郡司の子弟が学んでいた。「職員令(しきいんりょう)」によると府学には博士1人が置かれたが、後に音博士(おんはかせ)・明法博士(みょうほうのはかせ)が増員された。天応元年(781)の太政官符には医生・算生(さんしょう)200余人とあるという。
「学生」は、官吏として必要な教養科目として『論語』『孝経』など儒教の基本文献など学んだ。 「医生」は薬や医療のことを学び、医師となった。 「算生」は算術を研究し、計算や測量などの技術系官人となったそうだ。
調査では蓮華文様塼が出土しているが、未解明な部分も多く残されているそうだ。
太宰府学校院跡の説明板

太宰府学校院跡

ただ、古の学校跡も、現在では一見田んぼや草むらのような景色が広がっている。
この後は、途中道に迷いながらも何とか観世音寺にたどり着いた。なかなか入口が見つからないなぁ、と思っていたら、そこは裏口だった。どうりで分かりにくかったわけだ。
観世音寺は、天智天皇が670年頃に、筑紫(福岡)で亡くなった母斉明天皇の追福祈願のために発願して建立された寺院だ。「府の大寺」とよばれ、西海道(九州)の仏教寺院の頂点となる大寺院で、761年には東大寺・下野薬師寺とともに三戒壇の一つとなったそうだ。
講堂(本堂)

金堂

五重塔心礎。金堂の向かい側にはかつて五重塔が建っていたそうです。

楼鐘。この中に国宝・梵鐘が吊るされています。

境内には、国宝「梵鐘」や、馬頭観世音菩薩立像や阿弥陀如来坐像、十一面観世音菩薩立像など何体もの巨像が林立する「宝蔵」がある。宝蔵に収められているこれら仏像は国の重要文化財に指定されている。高さ5mほどもある彫像が林立する様は目をうばわれる。
宝蔵

宝蔵の看板。館内は写真撮影禁止なので、内部の様子はこの看板の写真を見てください。

僕は小学校か中学校の頃、社会科見学で観世音寺に行ったことあり、その時も宝蔵の中も見学したんだが、その時の記憶ではとっても広々とした空間にとても大きな仏像が並んでいたというものだったが、中に入ってみると「あれ?こんなに狭かったっけ?」と思ってしまった。何分にも、小学生(または中学生)の頃なので、中の空間がもっと広々としていたように感じていたのだろう。
観世音寺の中をひと通り見て回った後は、裏口から入ったので正面入口の方に行ってみた。何のことはない。入口は県道沿いにあった。政庁跡の正面入口から県道を歩いていけば、迷わずに済んだのだ。
観世音寺の正面入口の石標

県道を政庁跡の方に歩いて行ったら「戒壇院」の入口があったので、ここにも行ってみることにした。
戒壇院とはどういうところなのか、説明板や太宰府観光のWebサイトによると、
「僧が守るべき道徳規範や集団規則を「戒律」といい、戒壇は正式な僧侶となるための授戒を行う場所。戒律は、聖武天皇に招請され来日した唐僧・鑑真によって伝えられたもので、鑑真は失明しつつも、6度目の渡航でようやく日本へ渡り、京に向かう途中、観世音寺を訪れて、753年12月に日本で初めての授戒を行ったのそうだ。761年、観世音寺に戒壇院が、西海道(九州)の授戒の場として設けられ、東大寺(奈良)、下野薬師寺(栃木)の戒壇院とともに、「天下の三戒壇」と呼ばれました。」
だそうだ。
戒壇院の正面入口の石標

塀のすぐ内側にそびえる大木

山門

本堂

鐘楼

西戒壇再興碑と書かれた石碑

戒壇院を出てから、さらに県道を歩いて行ったら、朱色の柱の建物が目に止まった。この建物は「太宰府展示館」で、大宰府史跡の発掘調査によって検出された遺構(溝)の一部を保存公開し、出土遺物や模型などで大宰府の歴史と文化をご紹介している施設だが、この日は月曜日で休館日だったので中には入れなかった。残念。
太宰府展示館

その後は大宰府政庁跡の入口まで戻って、政庁跡の正面から南に真っ直ぐ伸びる「朱雀大通り」を歩いて御笠川にかかる朱色の欄干がある橋まで行ってみたら、その脇には大宰府朱雀門の礎石と推定されている礎石がある。ここに朱雀門があったと考えられているそうだ。
御笠川にかかる橋の欄干

柿本人麻呂が筑紫国に行くときに、海路において作った歌を刻んだ歌碑
「大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ」(万葉集巻三 304)

大宰府朱雀門の礎石(と推定されている)礎石

大宰府朱雀門礎石(推定)の説明板

そこから三笠川沿いに歩いて都府楼前駅まで戻ることにした。
おわり。
関連サイトはこちら。
太宰府市ホームページ:
http://www.city.dazaifu.lg.jp/admin/important/14987.html
新元号「令和」ゆかりの地 太宰府市に関する詳細資料:
http://www.city.dazaifu.lg.jp/material/files/group/1/0507reiwapanhu.pdf
日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」 ~東アジアとの交流拠点~:
http://www.dazaifu-japan-heritage.jp
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