影響力のある物理学論文の共著者になったネコ - その名は F.D.C.ウィラード
ちょっと前に面白い記事を見つけて、ここ何日か関連記事をいくつか読んでいる(記事自体は2014年から2016年にかけて書かれたものだが)。その記事とは、「影響力のある物理学論文の共著者になったをネコ」に関する記事だ。
物理の論文自体はもっと古く、1975年11月24日にアメリカ物理学会によって発行された学術誌”Physical Review Letters”の第35版に掲載されたものだ(Physical Review は世界で最も権威ある物理学の学術誌である)。
論文のタイトルは” Two-, Three-, and Four-Atom Exchange Effects in bcc 3He(bcc 3He の 2、3、および 4 原子交換効果)”というもので、これは bcc(体心立方格子構造)の固体 3He の格子点に存在する原子同士の交換により核スピンの磁気的相互作用の理論的計算を行い、その結果、2種類の反強磁性相を見つけたという内容の論文のようだ(Abstractを読む限り)。
僕は低温物理学の専門家ではないので、専門的な話はこれ位にして、物理の論文の共著者になったネコの話に移ろう。
ことの発端は、以下のようなものだ。
Physical Review Letters に発表された件の論文の著者は、 J. H. Hetherington と F. D. C. Willard の二人ということになっている。そのうちのヘザリントンは米国ミシガン州立大学の教授だが、もう一人の著者F.D.C.ウィラードは実はヘザリントンが飼っているネコだったのだ。
なぜそのようなことになったのか?
ヘザリントンは論文を投稿する前に同僚に論文を読んでもらうように頼んだが、同僚から次のような指摘を受けた。論文の著者は彼一人なのに、論文全体にわたって「”we”(私たちは)」や「”our”(私たちの)」と、一人称複数形を使っていたのだ。これは”royal we”(所謂「尊厳の複数」(*))というもので、Physical Review Letters には著者が一人の場合、一人称複数形を用いないという原則が定められていたのだ。
彼は「一晩考えた」後、この論文は非常に優れているため、早く発行する必要があると判断し、問題の論文を修正する代わりに、著者をもう一人追加することにした。というのも、1975年当時、論文全体がタイプライターで作成されていたので、ワープロソフトが普及している現在のように簡単に”検索”と”置換”をすることができなかったのだ。そのもう一人の著者が、彼が飼っていたシャム猫の「Chester(チェスター)」だったのだ。ただ、「チェスター」をそのまま共著者としてリストに加えるだけではうまくいかないと考えた彼は、「F.D.C. Willard」という名前を発明した。「F.D.C.」は「Felix Domesticus, Chester」の略(Felix Domesticusはイエネコを表す猫の種名、Chesterはネコの名前)、「Willard」は猫のチェスターの父親の名前だった。
ヘザリントンは別の人間を著者として追加したくない理由を次のように述べているようだ。科学者は発行する論文の数によって部分的に報酬を支払われる。論文が別の著者によって共有されると、その論文が評判に及ぼす影響がいくらか薄まる。一方で、宣伝効果も完全に無視したわけではないようだ。論文が最終的に正しいことが判明した場合、風変わりな著者が知られれば、そのことが人々の記憶に残っているだろう。
こうして、ネコの共著者「F.D.C.ウィラード」は誕生した。しかし、秘密がバレるのに時間はかからなかった。というのは、大学への訪問者が論文の著者に話を聞きにきた時、たまたまヘザリントンは不在で、ウィラードと話をするように頼まれた時だったようだ。そして、ウィラードが実際はネコだったことを知り、みんな大笑いしたという。
その後、ヘザリントンはさらにジョークに身を乗り出し、論文に自分の署名と共にウィラードの足跡をつけたものを発行さえした。彼は物理学者仲間が猫の共著者をどのように受け入れるのかについては、あまり心配はしていなかった。さらに、彼はウィラードを大学の「げっ歯類捕食コンサルタント」と表現し始めた。

F. D. C. Willardの署名[Wikipediaより]
では、大学関係者はどう思っていたのか?
どうやら、物理学のマスコットとしての猫というアイデアを気に入ったようで、ミシガン大学の物理学科長のトルーマン・ウッドラフはヘザリントンに手紙を書いて、ウィラードを物理学科にフルタイムで参加できるか説得できるかと尋ねたそうだ。手紙の一部は、「ウィラードが客員特別教授としてのみであったとしても、実際に私たちに加わるよう説得された場合、みんなが歓喜することを想像できますか?」と書かれていたという。
ウィラードが実際に大学に雇用されたかどうかははっきりしないが、ヘザリントンが彼の論文の一人称複数形の問題に対するユーモラスな解決策は、多くの科学者から高く評価されていたようだ。ただし、例外がある。ヘザリントンによると、ジャーナルの編集者はこのジョークを面白くないと思ったという。
その後、ウィラードは1980年にも 3He固体の反強磁性特性に関する論文「L’hélium 3 solide. Un antiferromagnétique nucléaire」を発表したが、今回は唯一の著者としてクレジットされている。しかもすべてフランス語で書かれており、フランスの著名な科学雑誌”La Recherche(ラ・ルシェルシェ)”に掲載された。実際にはこの論文は、ヘザリントンを含むフランスとアメリカの研究者たちによって書かれたものだが、内容の一部に意見の不一致があったため、ヘザリントンの提案でF.D.C.ウィラードを唯一の著者にしたようだ。
残念ながら、ネコのF.D.C.ウィラードことチェスターくんは1982年に死んでしまったが、彼が”共同執筆”した論文は、かなりの影響力を持ち、他の論文でもしばしば引用されてきたので、彼の名前は科学の世界で生き続けたのだ。
最後に、F.D.C.ウィラードの貢献を称え、アメリカ物理学会(APS)は2014年に次のように宣言した。「…、本日発効した新しいポリシーにより、猫が執筆したすべての論文が自由に利用できるようになります。…、近い将来、イヌの著者による出版を許可することを検討したいと考えています。シュレーディンガー以来、物理学には猫にとってこのような機会はありませんでした。」
この宣言を発表した日はいつだって?
4月1日だ。
関連記事・論文はこちら。
Physical Review Letters に掲載された論文:
https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.35.1442
APSのオープン・アクセス・イニシアチブ:
https://journals.aps.org/2014/04/01/aps-announces-a-new-open-access-initiative
Science に掲載された記事:
https://www.science.org/content/article/cat-co-authored-influential-physics-paper
Atlas Obscura の記事:
https://www.atlasobscura.com/articles/in-1975-a-cat-coauthored-a-physics-paper
Today I Found の記事:
http://www.todayifoundout.com/index.php/2015/07/life-work-f-d-c-willard/
Now I Know の記事:
https://nowiknow.com/the-secret-life-of-f-d-c-willard/
* 尊厳の複数とは、ヨーロッパでは国王などの高位身分にある者が自らを指す場合に代名詞として一人称単数でなく一人称複数を用いることをいう。このような高位の身分にある人は、個人の立場ではなく国民のリーダーとして公的な場で発言する場合、自分のことを一人称複数で呼ぶ場合がある。
[追記]
論文が発表された当時は、このような寛容でユーモラスな対応ができたが、オーサーシップ(研究に多大な知的貢献をした個人を著者として認定される)の基準が定められている現在は、このような対応は難しい。F.D.C. Willard は実際は猫なので、論文の著者としては認められない。
なんか、寛容さがなくなって世知辛い世の中になったなぁ。
オーサーシップに関する基準はこちらを参照してください。
https://www.elsevier.com/__data/promis_misc/RESINV_Quick_guide_AUTH02_JPN_2015.pdf
物理の論文自体はもっと古く、1975年11月24日にアメリカ物理学会によって発行された学術誌”Physical Review Letters”の第35版に掲載されたものだ(Physical Review は世界で最も権威ある物理学の学術誌である)。
論文のタイトルは” Two-, Three-, and Four-Atom Exchange Effects in bcc 3He(bcc 3He の 2、3、および 4 原子交換効果)”というもので、これは bcc(体心立方格子構造)の固体 3He の格子点に存在する原子同士の交換により核スピンの磁気的相互作用の理論的計算を行い、その結果、2種類の反強磁性相を見つけたという内容の論文のようだ(Abstractを読む限り)。
僕は低温物理学の専門家ではないので、専門的な話はこれ位にして、物理の論文の共著者になったネコの話に移ろう。
ことの発端は、以下のようなものだ。
Physical Review Letters に発表された件の論文の著者は、 J. H. Hetherington と F. D. C. Willard の二人ということになっている。そのうちのヘザリントンは米国ミシガン州立大学の教授だが、もう一人の著者F.D.C.ウィラードは実はヘザリントンが飼っているネコだったのだ。
なぜそのようなことになったのか?
ヘザリントンは論文を投稿する前に同僚に論文を読んでもらうように頼んだが、同僚から次のような指摘を受けた。論文の著者は彼一人なのに、論文全体にわたって「”we”(私たちは)」や「”our”(私たちの)」と、一人称複数形を使っていたのだ。これは”royal we”(所謂「尊厳の複数」(*))というもので、Physical Review Letters には著者が一人の場合、一人称複数形を用いないという原則が定められていたのだ。
彼は「一晩考えた」後、この論文は非常に優れているため、早く発行する必要があると判断し、問題の論文を修正する代わりに、著者をもう一人追加することにした。というのも、1975年当時、論文全体がタイプライターで作成されていたので、ワープロソフトが普及している現在のように簡単に”検索”と”置換”をすることができなかったのだ。そのもう一人の著者が、彼が飼っていたシャム猫の「Chester(チェスター)」だったのだ。ただ、「チェスター」をそのまま共著者としてリストに加えるだけではうまくいかないと考えた彼は、「F.D.C. Willard」という名前を発明した。「F.D.C.」は「Felix Domesticus, Chester」の略(Felix Domesticusはイエネコを表す猫の種名、Chesterはネコの名前)、「Willard」は猫のチェスターの父親の名前だった。
ヘザリントンは別の人間を著者として追加したくない理由を次のように述べているようだ。科学者は発行する論文の数によって部分的に報酬を支払われる。論文が別の著者によって共有されると、その論文が評判に及ぼす影響がいくらか薄まる。一方で、宣伝効果も完全に無視したわけではないようだ。論文が最終的に正しいことが判明した場合、風変わりな著者が知られれば、そのことが人々の記憶に残っているだろう。
こうして、ネコの共著者「F.D.C.ウィラード」は誕生した。しかし、秘密がバレるのに時間はかからなかった。というのは、大学への訪問者が論文の著者に話を聞きにきた時、たまたまヘザリントンは不在で、ウィラードと話をするように頼まれた時だったようだ。そして、ウィラードが実際はネコだったことを知り、みんな大笑いしたという。
その後、ヘザリントンはさらにジョークに身を乗り出し、論文に自分の署名と共にウィラードの足跡をつけたものを発行さえした。彼は物理学者仲間が猫の共著者をどのように受け入れるのかについては、あまり心配はしていなかった。さらに、彼はウィラードを大学の「げっ歯類捕食コンサルタント」と表現し始めた。

F. D. C. Willardの署名[Wikipediaより]
では、大学関係者はどう思っていたのか?
どうやら、物理学のマスコットとしての猫というアイデアを気に入ったようで、ミシガン大学の物理学科長のトルーマン・ウッドラフはヘザリントンに手紙を書いて、ウィラードを物理学科にフルタイムで参加できるか説得できるかと尋ねたそうだ。手紙の一部は、「ウィラードが客員特別教授としてのみであったとしても、実際に私たちに加わるよう説得された場合、みんなが歓喜することを想像できますか?」と書かれていたという。
ウィラードが実際に大学に雇用されたかどうかははっきりしないが、ヘザリントンが彼の論文の一人称複数形の問題に対するユーモラスな解決策は、多くの科学者から高く評価されていたようだ。ただし、例外がある。ヘザリントンによると、ジャーナルの編集者はこのジョークを面白くないと思ったという。
その後、ウィラードは1980年にも 3He固体の反強磁性特性に関する論文「L’hélium 3 solide. Un antiferromagnétique nucléaire」を発表したが、今回は唯一の著者としてクレジットされている。しかもすべてフランス語で書かれており、フランスの著名な科学雑誌”La Recherche(ラ・ルシェルシェ)”に掲載された。実際にはこの論文は、ヘザリントンを含むフランスとアメリカの研究者たちによって書かれたものだが、内容の一部に意見の不一致があったため、ヘザリントンの提案でF.D.C.ウィラードを唯一の著者にしたようだ。
残念ながら、ネコのF.D.C.ウィラードことチェスターくんは1982年に死んでしまったが、彼が”共同執筆”した論文は、かなりの影響力を持ち、他の論文でもしばしば引用されてきたので、彼の名前は科学の世界で生き続けたのだ。
最後に、F.D.C.ウィラードの貢献を称え、アメリカ物理学会(APS)は2014年に次のように宣言した。「…、本日発効した新しいポリシーにより、猫が執筆したすべての論文が自由に利用できるようになります。…、近い将来、イヌの著者による出版を許可することを検討したいと考えています。シュレーディンガー以来、物理学には猫にとってこのような機会はありませんでした。」
この宣言を発表した日はいつだって?
4月1日だ。
関連記事・論文はこちら。
Physical Review Letters に掲載された論文:
https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.35.1442
APSのオープン・アクセス・イニシアチブ:
https://journals.aps.org/2014/04/01/aps-announces-a-new-open-access-initiative
Science に掲載された記事:
https://www.science.org/content/article/cat-co-authored-influential-physics-paper
Atlas Obscura の記事:
https://www.atlasobscura.com/articles/in-1975-a-cat-coauthored-a-physics-paper
Today I Found の記事:
http://www.todayifoundout.com/index.php/2015/07/life-work-f-d-c-willard/
Now I Know の記事:
https://nowiknow.com/the-secret-life-of-f-d-c-willard/
* 尊厳の複数とは、ヨーロッパでは国王などの高位身分にある者が自らを指す場合に代名詞として一人称単数でなく一人称複数を用いることをいう。このような高位の身分にある人は、個人の立場ではなく国民のリーダーとして公的な場で発言する場合、自分のことを一人称複数で呼ぶ場合がある。
[追記]
論文が発表された当時は、このような寛容でユーモラスな対応ができたが、オーサーシップ(研究に多大な知的貢献をした個人を著者として認定される)の基準が定められている現在は、このような対応は難しい。F.D.C. Willard は実際は猫なので、論文の著者としては認められない。
なんか、寛容さがなくなって世知辛い世の中になったなぁ。
オーサーシップに関する基準はこちらを参照してください。
https://www.elsevier.com/__data/promis_misc/RESINV_Quick_guide_AUTH02_JPN_2015.pdf
この記事へのコメント